霧下そば本家の歴史

安永元年
(1772年)
田光五郎右衛門が、米穀商のかたわら、蕎麦粉を賃挽したのが始まりである。
文政三年
(1820年)
小四郎は宮大工棟梁であったが、事情にて職方を解散し養家へ帰り、江戸の寄宿先で見覚えた江戸前そば屋を始めたが、雪国のため、つなぎにする小麦粉の入手が非常に困難で「何とか蕎麦粉だけで打てる方法はないものか」と製粉に手打ちに工夫を凝らし、純そばきりを成功したのが、広く宣伝された。
明治二十八年第四回内国勧業博覧会が京都で開催され、五代目圧作が交通の不便を押して蕎麦粉を出品、有効三等褒賞状賞牌を拝受する。
大正五年電気が架設され電動機を導入、水車を石臼挽専用とする。
昭和八年東京銀座七丁目、創業元禄元年元祖長寿庵様より御引合在り、一躍評判良く、故植原路郎先生主催の「味覚」という冊子に「霧下蕎麦粉」の優秀さが発表され、弊社が登録商標を受け現在に至る。
昭和十二年関川より同村、信越線妙高高原駅(旧田口駅)前へ工場を移転。
昭和二十八年東京都墨田区文花一丁目三十四番三号に東京工場を新設する。
昭和三十九年東京工場を四階建てに改築、独創の機械設備を更に改良、温度調整、低温恒湿倉庫、天然乾燥場等を完成する。
昭和四十二年国内産玄蕎麦は、逐年減産の一途をたどり、優良玄蕎麦を安定して入手できない状勢になったため、有力蕎麦店様と「霧下会」を結成。業界初の優良産地と契約栽培という画期的な実証をあげ、優れた玄蕎麦の確保に努める。
昭和四十三年
十月
霧下会報第一号発刊する。
昭和四十四年純粋な「蕎麦粉」で、「本当のお蕎麦を研修する会」を結成。
同年
九月
全国蕎麦製粉協同組合代表として、カナダ蕎麦産地を視察し、品種改良に協力する。
昭和六十年
一月
株式会社霧下そば本家と社名変更する(旧田光そば製粉所)。
同年
十一月
霧下そば本家ビル落成する。
平成三年
四月
品質向上のため、石臼、増設。
平成十二年
五月
品質向上のため、丸ヌキ、割ヌキ、ロール製粉工場新設。
平成二八年
六月
八代目、田光誠が代表取締役に就任。
妙高高原の星野公園に建立した、故 植原路郎先生揮毫そば碑

妙高高原の星野公園に建立した、
故 植原路郎先生揮毫そば碑